CONSULTING
土地活用コンサルティング
鈴与三和建物で建築され、不動産経営をされているオーナー様。
ご所有されている土地には、多くのストーリーがありました。
それぞれの場所で、さまざまな課題を解決してきた鈴与三和建物のANSWERをご紹介いたします。
豊田祐宏様(太田区)
いくつもの事業を営まれている豊田様。
お父様から受け継いできた思い出の場所とご家族との絆。
ご自身のこだわりと街の発展を願った建物。
そこに至るまでには多くのストーリーがありました。
孫からの手紙がきっかけに。
10年ほど前に、私が大病を患って入院していた時のことです。
病室で誕生日を迎えた時に、孫娘から励ましの手紙をもらいました。
それまでとにかく仕事を優先させて、家族のことは妻にまかせっきりだったので、家族からどれだけ愛されていたのかに改めて気づかされたのです。鈴与三和建物さんと出会ったのはそんな時でした。
店舗として貸し出していた土地を建て替えて、家族が集える場所にしたい、妻も安心して快適に暮らせる住まいにしたい、そんな想いに担当者の方は応えてくださいました。
過去の経験を活かした有効活用へ。
父が戦前から商店を経営していたこの場所は、思い入れの強い場所でしたが、私の代で商店を廃業して、独立して別の事業を興しました。
その中で、以前に、別の土地で賃貸マンション経営を始めたこともありました。著名な設計士にお願いして、自分で建築会社を探してこだわり抜いた物件でしたが、設計段階でのこだわりと工事段階での仕上がりの違いがあまりにも多くて、その調整にも多くの時間と神経を費やしました。
当時の反省点や、実現できなかったことなど、鈴与三和建物さんの営業・設計のそれぞれの担当者に、詳しくお話ししたところ、粘り強くご対応いただきました。また施工中もよく現場に見学に行きました。これだけ大きな建物を建てるということは大変なことだと思いますが、見えないところまで、本当に丁寧に仕事をされていたことに感心しました。
今では安心して不動産経営ができています。
街の発展を願って。
商店街に面したこの建物は、周辺のランドマークになって欲しいという願いもありました。共に育ったこの街の景観をよりよくする外観デザインにしたいというコンセプトを反映することもできました。
蒐集した絵画に合う素材、お取引先様からいただいた思い出の家具が映えるインテリアデザインなど、オーダーしたことは数知れず。鈴与三和建物さんにはご苦労を掛けたかもしれませんが、非常に満足した仕上がりになりました。
また、ご近所で老朽化した総合病院が別の駅に移転する計画を知り、近くの方が通う病院がなくなってしまうのではという心配から、別に所有していた駐車場を病院として建ててお貸しすることで病院の拠点も維持することができました。ここも鈴与三和建物さんにお願いしました。
建築物は長期間に渡って街の印象を形作るものですから、これからも丁寧な仕事を継続して、街の発展をお手伝いしていただきたいと思います。
村上謙三様(品川区)
戦前から続く公衆浴場を祖父の時代から引き継いできた村上様。
時代の移り変わりに合わせて、明るい笑顔からは想像できない、「事業転換」という苦渋の決断がありました。
受け継いできた公衆浴場。
祖父が地方から東京に出てきて、公衆浴場の営業を開始したのが明治の終わりごろでした。昔の住まいは内風呂がなかったので当初から繁盛していたと聞いています。当時の公衆浴場経営は土地や建物を借り受けて営業するのが普通でしたが、祖父は先見性があったのか自分で土地を買ってから開業し、順調に事業を拡大。都内で4か所で公衆浴場を経営をするに至りました。
戦時中は空襲でこの一帯は焼け野原になり、経営していた銭湯もなくなりましたが、まだまだニーズはあると思い、建て直し営業を再開。
昭和53年に古くなった銭湯を、賃貸住宅と自宅と店舗、浴場として建て直しました。100年に渡って経営を行ってきた家族にとって思い出の詰まった場所でした。
廃業の決断。
時代とともに公衆浴場のニーズも少なくなり、また建物の老朽化も進み、経営の先行きに、徐々に不安を募らせるようになっていました。100年続いた銭湯の経営を自分で終わらせしまっていいのか、ずいぶん悩みました。
また「金春(こんぱる)湯」という屋号で営業していましたが、江戸時代からある銀座の銭湯からいただいた名前を途絶えさせていいのかという葛藤もありましたが、将来的な廃業を検討した時に、不動産活用の建築会社の営業の方が多く来られました。そして今から、3年前にその決断をする事に。その中の担当者の一人が鈴与三和建物の塩川さんでした。営業がてらにお風呂に入ってもらって、まさに裸の付き合いじゃないですが、相談にのってもらうようになったのです。
保育園という驚きの提案
3代商売を続けた場所だからこそ、思い入れの強い場所。
他の建築会社に提案を受けていた平凡な賃貸マンションを建てても立地的に問題がないのは理解していましたが、1階部分の利用方法には迷いがあり、長期的な視点で有効活用を検討し、各社に相談していました。
鈴与三和建物さんは、当時待機児童が問題になっていた品川区の意向をいち早く察知し、保育園を併設した賃貸マンションを提案してこられました。
長期間に渡り、地域貢献できると判断し、設計・建築を依頼しました。
役所への申請や、建物のデザインなど、保育園の開園日から逆算して工程を決める必要があるため、短期間で決定しなければいけないことが多く、目まぐるしい日々を過ごしましたが、今となっては懐かしい思い出です。
鈴与三和建物さんの提案力とスピードにはこれからも期待したいですね。
河奈正壽様 正道様(北区)
東京北部の交通の要所、北区・赤羽で賃貸マンション経営をされている河奈様。
親子二人三脚で進めた不動産経営は現在建築中のものも含めて4棟目。
全て鈴与三和建物で建築していただいています。
鈴与三和建物さんとの出会い
8年ほど前に、相続税対策を視野に入れ、駐車場にしていた土地に賃貸マンションを建てること決断し、父と真剣に考え始めました。
土地が大きな通りに面していたこともあり、当時は10社以上の建築会社が営業に来られたのを覚えています。
「鈴与」の名前はグループとしてCMや静岡に行ったときに目にしたことはありましたが、鈴与三和建物さんとしては、その時に初めてお会いしました。
最終的に決めかねて、父と相談し、鈴与三和建物さんを含めた3社に絞ってご提案をいただきました。
その中で鈴与三和建物さんの提案が、実は一番高かった(笑)。
ただ、逆梁工法や居住空間の設え、デザイン・構造、バリエーションの多い間取り構成など、周辺で増加していた賃貸マンションとの差別化がしっかりとされており、安定的な収益が見込めるだろうと判断し、建築を依頼しました。
信頼を大切にしたい
計画性のある収益シミュレーションや個性的な提案はもちろんのことですが、鈴与三和建物さんは、発注前から設計の方が熱心に打ち合わせに来られて、我々の土地に対する想いや、今までの経緯をよく聞いてくださいました。
父も長年不動産経営に携わっており、だいぶ苦労をしたということや、私自身も会社員時代に営業をしておりましたので、信頼をベースにお付き合いをいただける担当者、会社との取引を優先し、鈴与三和建物さんには、4棟目もお願いしております。
今では退任された役員の方も時折、ご挨拶に来ていただくなど、担当者の方はもちろんのこと、会社全体でサポートをしていただいていることを実感しています。
父の苦労と共に
赤羽の地には曾祖父・曾祖母が100年以上前に千葉から移り住んだようです。当時は田園風景が広がるこの場所で農業を営んでいたことからこの一帯に土地を所有しており、相続で受け継いできました。
昭和40年代に、所有していた土地が区画整理となり、換地によって敷地が2つに分けられました。前面道路が広くなったことで、容積率が緩和され、そこから住宅・事務所の建築を初めて行うようになりました。
われわれの不動産経営はそこから本格的に始まりましたが、戦後から高度成長期、バブルの時代の中で多くの苦難をこの場所で乗り越えてくることができました。
先祖から引き継ぎ、苦楽を共にしたこの地をいつまでも守り続けたい。
鈴与三和建物さんにはこれからも手伝ってもらいたいですね。
星野善昭様(新宿区)
西新宿の東京都庁に程近い立地で、
不動産賃貸業をされている星野様。
ご先祖から受け継がれている土地をご所有され、
大家業を継承されています。
ご自宅をオフィスビルへと建て替えられたのをはじめ、
賃貸マンション、アパートと多くの収益不動産を
鈴与三和建物で建築していただきました。
わたしたちと星野様との出会いは
およそ35年前までさかのぼります。
鈴与三和建物との出会い。
星野家は200年以上前から、西新宿(柏木)の地に住み、先祖から伝わる土地を所有しながら、アパート数棟を経営するいわゆる大家でした。
西新宿には今や東京都庁を始めとする高層ビルが立ち並んでいますが、私の幼少期には淀橋浄水場の跡地に少年野球のできる空き地があり、街は平屋の建物が立ち並ぶ住宅地でした。
1970~1980年代にかけての高度成長期にオフィス街として大きく様変わりしました。1988年に高層ビル群の近くにあった自宅をオフィスビルに建て替えることを決断し、ちょうどその頃、西新宿で何棟か工事を手掛けられていた鈴与三和建物さんと出会い工事をお願いすることとなりました。
以来35年近くのお付き合いで、オフィスビル、賃貸マンションなど計7棟の建築をお願いしてきました。
両親からの教え。
数年前に亡くなった母からは、子供のころから家業のことや、ご近所との付合い方などいろいろ聞かされていました。そのため将来は自分がこの家を継承しなければならないと考えていました。
40歳を過ぎて高齢になった両親の支えになればと思い、20年近く勤めた会社を辞め、何も分からないまま家業を手伝うようになり、早20年になります。
そんな自分を育ててくれたのも鈴与三和建物さんだと思っています。建築だけではなくビルの管理でも大変お世話になっており、何かあればすぐに相談に乗ってくれる良きパートナーです。
今後また新たに建築の機会があれば真っ先に鈴与三和建物さんに相談することになると思いますし、建築をお考えの方がいれば、信頼できるパートナーとして胸を張ってご紹介したいと思います。
この街を大切にしたい。
最初のオフィスビルの建築から20年近く経過した2010年から10年の間に、私の監修で賃貸マンションなど4棟を建築していただきました。私は元々建築の仕事しておりましたし、一級建築士の資格を有していましたので営業、設計、現場の各担当の方はやりにくかったのではないかと思います。それでも私の考えを受け入れていただき、より良い建物ができましたことに大変満足しています。
自分が住みたくなるような家というのが私の賃貸マンション建築に対する考えです。建築主にとっては建築することは目的ではありません、その部屋を気持ちよく利用していただけること、そして空室が出ないことが第一ですので、その時代のニーズに合った建物を提案していただいた鈴与三和建物さんには大変感謝しています。
この地域にも多くのマンションが建ち、若い方が増えて活気はあるのですが、老朽化した建物や昔からお住まいの方が離れていくようになり空き家が増えたりと問題を抱えています。この先、この地域が住みやすい活気にあふれる街になるよう、私も尽力していかないといけないと考えています。長いお付き合いの中で鈴与三和建物さんにはこれからもよき相談相手になっていただけるものと期待しています。